靴の随想(1) 「始めて履いた靴」

「子どもの足と靴の会」の創設者で,日本靴医学会の創設メンバーでもあり,長年「足と靴の研究」を続けてこられた荻原一輝先生が随想を寄せてくださいます。
 これが第1回目ですが,当会のブログへの掲載にご了解いただきましたので,掲載させていただきます。
                                           (管理人)

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「始めて履いた靴」
                     荻原 一輝

 私が生まれて始めて革靴を履いたのは小学校低学年で、昭和一桁の頃である。そもそも私は昭和2年生まれで、ほぼ昭和の年数と自分の満年齢が一致する。この時の靴は靴屋さんで既製靴の購入だっただろうが、足と靴が合っているかどうかについて、当時の父母や靴屋さん自身にどれだけの知識があったか疑わしい。それよりもそもそもこの時代の子供にとって「革靴」と言う物は一種のオシャレ(これも本人の希望でなく、むしろ両親にとって。)でなかったのだろうか?
 それは所謂「晴れの日・・・天候の晴雨でなく、おめでたい日、よそ行きの日の意味。」に履く物であった。多分当時の4大節(新年,紀元節天長節明治節・・これを一つ一つ説明すると相当に時間が掛かるので思い切って全部省略する。第二次大戦前の日本人の生活を学んで欲しい。)か、特別な外出、(京都の習慣では春の「都をどり」(毎年4月1日から30日まで祇園歌舞練場で行われる京都の年中行事の一つ)とか南座での年末の「顔見世歌舞伎」を見に行く時位に履かせて貰ったものである。しかしいずれも小学生にとってはそれほど嬉しい物でなく、きちんとした服装で悪戯することは禁止され、一日中苦しい事が多かった。特に滅多に履かない革靴はサイズも何もあったものでなく、去年履いたと同じものを今年も履くのであるから成長盛りの子供に合うはずも無く、専ら親の見えだけだったのだろう。履かされる子供こそ良い迷惑である。と言うことで、私の革靴に対する第一印象は「痛い」と言う事から始まった。
そして、次は待望の中学生になったときである。この頃の学制は、小学校年間だけが義務教育期間で、中学校は入学試験があった。これに合格すると決まられた帽子(制帽)制服、制靴を着けなくてはならず、その上当時はゲートル(この説明も省略する。)を着けなくてはならなかった。それで「靴」である。今日ではこの制靴を指定している学校、職業は極めて限られている。身近なものでは、病院の看護師があるが、それも順次緩められてきている。その他、自衛隊、警察関係、鉄道、旅客機の勤務員等だろうか。
 しかし、当時は兎も角も難関?の入学試験に合格した印で、制靴を履く事は“誇らしい“服装の一つであった。残念ながらこの昭和15年の小生入学時には既に日常生活物資配給制が始まり、革靴もその例に漏れず、4月の入学に間に合った物は多分制帽と制靴だけだったと記憶している。しかもこの与えられた靴は一応足の計測してから配給されたもので、既に牛皮製で無く、豚皮製であり、その後4年間の在校中もう一度配給が行われ、その時も足の大きさの応じた靴が配給されたが、15才から19才の思春期を2種類の大きさの靴で過ごしたのである。
と言う事は相当に傷んだ物を修理しながら着用していた事になる。しかし「制靴」と決められた以上、毎日の登下校時には必ずこれを履かなければならないし、「教練」と称する軍人の真似事の授業にも同じように履かなければならなかった。まず、靴紐はすぐに切れたし、ハトメも飛ぶのはごく初期の話、足の小指の先が破れるのを始めとして、親指の先、踵などが破れ足が見えてくる。この辺になると素人ではどうしようもない。その内致命的な甲皮と底皮が離れてくる。一部ならともかく、全部離れると上から縄でくくりつけて履く?事になるか、思い切って甲皮だけつけて。底皮なしで履いたことにする。この辺になると今の人には想像もつかない話で、つまり歩く度に踵を上げると自分の足の踵が見えると云う事になる。笑い話にもならない事だが、本人は真剣であった。
このような事で、今我々がやってきた「足と靴の適合性」という話題とは全く合わない話である。

 この一文は私がここ30年近くの間靴に興味をもって学んできたことを一緒に勉強してきた仲間達や多くの知人、友人達にも送る事にしているが、これを思いつきながらもう何年も経っている。それは何ども書きかけながら前に進まず留まってしまったからで、この度は敢えてここから書き始めていくことにしたが、此処まででもお分かりの様に、何ら学術的なものでなく、思いつくままに書き連ねていくという私の方式で進めることにしたい。その積もりで気楽にお読み頂ければ幸いである。        12.5.10