靴の随想(2) 昭和27年頃履いていた靴 靴のコスト ケミカルシューズ

靴の随想(2)
                     荻原 一輝


今から考えると勿体無いことなのですが、昭和27〜28年頃私が京都大学整形外科教室で始めて「整形外科」というものを勉強し始めた頃の話です。
 或る時、当時の助教授と助手の先生と教室に入りたての私が雑談をしていました。助手の先生が「扁平足の人に挿版を沢山造ったが、あれはどのくらい効果があったのだろうか?」という話をされた。助教授の先生が「それは一度調べてみたらよい。」と賛成されて、傍にいた私に調査の指示が出た。まだ、学問的な調査とは何処から何をどうすればよいのか全く解らない。兎に角この助手の先生のお話で、「外来患者のカルテを片っ端から調べて扁平足と診断されたカルテを探し、その方々にに往復はがきを出して使用状況、効果を尋ねてみよう。」ということになった。そこはさすがに天下の大学病院である。まだ戦争の余波が相当に残っている時代であったが、外来カルテは全部きちんと綴じられて保存されていた。最近のものから扁平足と診断名があるものを拾っていった。これが意外に少ない。最近でもそうだろうがたかが「扁平足」で大学病院まで診察を受けに来る人は殆どおられない。当時大学の外来新患がどの位あったのか記憶がないが、想定で年間何千人かはあっただろう。目が真っ赤になるくらい調べていって1年間に10人くらいの「扁平足患者」があっただろうか。とにかく何年分か調べて、何十人かの方に「挿板をお使いになられましたか?その期間?その効果?」等の簡単な質問の往復はがきを出した。
 その結果は惨憺たるものであった。数十通出したはずが、半分くらいしか帰ってこない。しかもその内容は「着けてみたが、痛くてすぐに外した。」というのが一番多く、精々4〜5箇月しか着けていない。そして結果は「無効」であった。これを先の助教授の先生に見せた所「これで学会に出す訳にはいきませんな。」の一言でお終い!因みに今では考えられないが、卒業して、医師国家試験に合格し4年くらい経っていた。この時の葉書代は全部自分持ち。その私は「京都大学医学部副手を命ず。但し無給。」と云う辞令を貰っている所謂「無給副手」であった。そして今から考えると、この頃までに整形外科学会でも足底挿板に関する論文は全く無く、よく調べると僅かに水野祥太郎先生が幾つかの足、扁平足の論文の中で触れておられるだけだっただろう。それだけにこの「調査」は意味があったのだろうが、如何せん、こちら側にも全くと言ってよいほどこれに関心、興味がなかったし、まして外国文献まで調べる事も当時は相当にむつかしかった。
 という事で、以来20年位、私は取敢えず一般臨床整形外科医になるべく、精進?し、足の事も、勿論靴の事も全く頭に浮かばなかった。
 余談だか、この頃は専ら進駐軍のお古の靴を購入して履いていた。これは私の足長からみて、少なくとも3cmは大きかったが、堅牢にできていてそれなりに格好も良く、長い間履いていた記憶がある。(この年で靴さえ丈夫ならば4〜5年は履けてのだろう。
 昭和30年過ぎに、この頃は神戸の病院に赴任していたが、よく訪ねてくる薬屋さんから「この頃このような靴ができているのをご存知ですか?」と言われたのが今で言う「ケミカルシューズ」であった。軽くて、強くて、体裁も良く、その上「安い。」という。3拍子も4拍子も揃っていて,履かない理由は無い。早速に購入,以来数年は履いていた気がする。その内少しは給料がよくなり、革靴も履きたくなり、デパートでたまたま見たイタリア製(名前だけ?)の靴を購入した。元来私の足は長さに比し、幅は狭く、甲高でなく、むしろ低い位で、この点、既製靴が合わせやすいタイプだと思っている。これも今考えると「足と靴が合っていた。」と云うことでは無く、単に「履ける。」というだけであったに過ぎない。但し、前回書いたような「革靴を履けば必ず豆(水泡)ができる」ことはよほどの長距離でも歩かない限り少なくなっていたが。(それでも以前から豆では苦労していたので、自分なりに良い治療法?を見つけ、必要に応じて応用していた。・・・この方法も余りにも幼稚で、今ではここに書くのも恥しい。
            第2報終わり 次回はドイツ製足底挿板との出会い