靴の随想(4)扁平足つづき

靴の随想(4) 扁平足・・・続き

                             荻原 一輝
本気で私が靴の事を勉強する前にでも一整形外科勤務医として、若干気にしていたことをもう少し書いてみます。
元々私が習った京都大学整形外科では、コルセット、装具、(足底挿板も含めて)のモデル採型は医師が取るように指導されていました。最近では業者が取るのが当たり前のようになっていますが、昔は教授自身が軟性コルセットのモデルをギプスで採型されていました。従って私は必要な足底挿板の採型も自分でする事が当然と思っておりました。
 所で扁平足の「定義」から云うと、「足の縦アーチの低下」と云う事になります。勿論これはX線撮影による骨の構造・・・並び方によるもので、フットプリントによる見かけ上の扁平足ではありません。(見かけ上での新生児期の皮下脂肪によるもの、陸上選手や、相撲取りに見られる足底筋の強大な発育に依るもの等は当然除外されます。)と云う事で、まずX線撮影も「横倉法」に従い、出来る限り正確な方法を用いました。その上、採型に当たっては「どこを一番持ち上げるか。」と言う事にも気を遣い、(同じ整形外科医でも、「載距突起」だとか、「第一楔状骨」が一番高いという人もいる。)私は「舟状骨」の持ち上げに力を入れました。これはギプスに依る採型では固まるまでにどうしても少し甘くなり、出来上がった挿板では希望する「縦アーチの挙上」が少なくなり勝ちになる事を予防する為でした。
 一寸専門的で細かいことを書きましたので解りにくかったかと思いましたが私の扁平足に対する思いを述べる為に敢えて書いて見ました。
 実際に扁平足の人で思い出す方もいます。その一人はその頃整形外科の外来で働いてくれていた看護婦さんです。当時既に30才は超えていたと思いますが、ある時不図「先生!私は強い扁平足ですが、平素何の苦痛もありません。ご覧通り日常の勤務にも何も差支えもありません。」との話がでました。見せてもらうと確かに扁平足で、後から念のためX線撮影も見せてもらいましたが、横倉法による計測上も間違いなく立派な?扁平足でした。この方は何の愁訴もないので、勿論足底挿板は作成しておりませんでした。
 反対のもう一人。この方は50歳を超えた位の男性で当時国鉄の工場の工員さんでした。何のお仕事か詳しいこと聞いておりませんが、ご自分で「扁平足で長時間の立ち仕事が辛い長年同じ職場で、ずっと以前から足が痛かった。」との事でした。あちこちの整形外科医を訪れた後に私の外来に来られました。型の如くX線撮影の上、何時もの様に型取り、扁平足挿板を作成しました。これがとても有効で、私も今まで何人かにこの様に挿板を作って来ましたが、こちらが驚く位喜んで頂きました。私も実は「鉄キチ」の端っこですので、その後何かと鉄道の話に花が咲きました。
 この程度のことで特に靴に興味を持つでもなく、42才で開業し、3年ほど経った頃、当時いろいろな装具、義肢の作成で世話になっていたS義肢製作所の所長さんが「先生は靴に興味はありませんか?」と突然聞かれました。特に興味もなく、寧ろ全く無い。と言える私でその通り答えると、「靴は面白いですよ。この頃自分は興味をもって調べているが、一緒にやりませんか。」とのお誘いでした。その後,日もなく「ドイツから靴屋が来て、日本の整形外科医に会いたいと言っています。一度話を聞いてやって呉れませんか。」との話がありました。偶々この頃この所長と私の共通の友人で、ドイツ帰りの人が通訳を務めてくれるということで,一夜4人で食事を共にした事があります。後から考えるとこのドイツから来た人はその頃既にドイツで「既製の足底挿板を売っている会社」で、日本の市場調査にこられたのでした。日本では当時は足底挿板に興味を持つ医師はなく、その10年余の後に漸く既製の足底挿板が売り出されています。と云う事で、折角宣伝に来られたのにその話を聞いている私が「足底挿板は個人に合わせて採型し、これに合わせて制作する。」という考えではさっぱり理解できず、申し訳ない事で、また残念でした。
 最後に1例ですが、扁平足に手術を行なった事があります。その方のお名前も、手術の日も全く忘れておりますが、その内容は今でも覚ええおります。手術法は「ヤング法」です。多分水野祥太郎先生がお書きになった論文で知っただろうと思います。詳しいことは略しますが、前脛骨筋健の楔状骨付着部近くで、舟状骨に溝を掘りそれに引っ掛けて遠回りさせると縦アーチが出来るというものであある。この様に書いただけでは理解しにくいが、実際に手術をしてみるとその場で見事に扁平足が改善されるのに驚きました。但し私はそれからの経過を追跡しておりません。或いはその腱が時間とともに切れてはいないかと心配しております。水野先生は17例おやりになって、大体は好成績であったとの事です。(水野祥太郎著 ヒトの足の研究)
次からいよいよ「靴の勉強開始」です。

靴の随想(3)扁平足

荻原一輝先生の随想です。

靴の随想(3)・・・扁平足

 前回「扁平足」のことを書きましたら、いろいろのご意見を頂きました。これを読んでいるうちにもっと古い事を思い出しました。最初に書いた様に、私は略昭和の年数と同じに成長してきました。大体小学校に入る前頃に国内では幾つかのクーデターがあり、中国でも小さい戦争が「事変」と称して始まっていたのです。
日本中学校では「富国強兵」という教育で、男の子は大きくなったら元気な兵隊になる事を先生も、自分自身も理想と考えていました。
 それで「扁平足」です。その頃の(今でも?)「兵隊」は「歩兵」が中心で、兎に角歩かなければならない。所が何時の頃からか「偏平足の人は長距離歩行で足が痛くなり、歩兵には好ましくない。」という考えが広がり、多分小学校の四年生か五年生の頃、教室で裸足の足をバケツの水に浸けた後に歩行して、フットプリントを先生が見て「お前は扁平足!」「お前は大丈夫。」と判定された。扁平足とされた子供は毎日居残りさせられて、運動場を踵を上げて何メートルか歩行する、砂場を裸足でぐるぐる歩く練習をする等の訓練?を強制されました。1学期が済んだ頃、再度「バケツの水テスト」があり、扁平足でないと云う判定がなければ次の学期も居残り訓練でした。私は最初に「扁平足」とされ、次の時に「治っている。」と云う事で、一学期で済んだ記憶があります。
 今から考えるとフットプリントを、素人が診断?するのですから、無茶な話ですし、それよりも「扁平足は長徒歩行に耐えられない。」と云う事に医学的根拠があったのでしょうか。(巷間伝えられる所では、森鴎外・・林太郎軍医総監が指示したとの事です。)
 しかし「扁平足と歩行障害」は長く信じられて居て、これが先に述べた「扁平足に足底挿板」の根拠になっていたのでしょう。
少なくとも昭和30年代に総合病院の整形外科医長であった私は(もうこの頃は水バケツ法でなく、私は横倉法に準じてX-P撮影を行い、時にはこれを計測して「扁平足の診断」を行い、その人には私が自分でギプスによる採型を行い、時には挿板完成後その上に足を乗せて再度撮影を行なって着けて貰っていました。しかしその効果はあまりよくなく、これを有る期間着用して、扁平足が改善されたとはみとめませんでしたし、痛みがなくなった事もあまり聞かなかった様に思います。
 ここまではまだ私が「靴医学」に興味を持つ以前のことで、その後1例は手術を試み、或いは年少の子供で特に脳性小児マヒの人に「スピッツィの挿板」を着けた事がありますが、聊か専門的になりますので、これは稿を改めて書く事にします。

(臨時)靴の随想 「扁平足」について

(臨時)靴の随想  「扁平足」について

                                    荻原一輝

たまたま、先程までNHKの「試して合点」という番組で「扁平足」を取り上げていました。この番組がある事は少し前に偶然の機会で知り、時間があれば見て置きたいと思って居りましたら、またその前の時間は「福島のお米の放射能汚染」と云う題でこれも興味があり、続きで見てしまいました。
 私はこのシリーズで既に「扁平足」について若干書く機会がありましたが、これは私にとってはほんの序論で、いずれ改めてゆっくり述べてみたいと思っております。それで今日は番組に対しての直接に私の意見は書かないで、「長い間靴の勉強をしてきたが、私自身も、この次に述べる『日本靴医学会』でもまだまだ扁平足が解っていない。足はむつかしい。」というのが取り敢えずの本日の所感です。
むつかしい所に首を突っ込んだものだと思いますし、その意味で「靴の話はこの様にむつかしい事なのだ。」という事だけでも、お分かり頂ければ駄文を書いている意味もあろうかと考えます。
 最初から脱線ですが、NHKゴールデンアワーの話なので、あるいは沢山の方がご覧になったかと思いつきましたので、敢えてここに寄道して一文を挿入しました。

NHKで放送されてすぐ原稿はいただいていたのですが,書き込むのが遅くなりました。申しわけありません。(管理人)
                                      

靴の随想(2) 昭和27年頃履いていた靴 靴のコスト ケミカルシューズ

靴の随想(2)
                     荻原 一輝


今から考えると勿体無いことなのですが、昭和27〜28年頃私が京都大学整形外科教室で始めて「整形外科」というものを勉強し始めた頃の話です。
 或る時、当時の助教授と助手の先生と教室に入りたての私が雑談をしていました。助手の先生が「扁平足の人に挿版を沢山造ったが、あれはどのくらい効果があったのだろうか?」という話をされた。助教授の先生が「それは一度調べてみたらよい。」と賛成されて、傍にいた私に調査の指示が出た。まだ、学問的な調査とは何処から何をどうすればよいのか全く解らない。兎に角この助手の先生のお話で、「外来患者のカルテを片っ端から調べて扁平足と診断されたカルテを探し、その方々にに往復はがきを出して使用状況、効果を尋ねてみよう。」ということになった。そこはさすがに天下の大学病院である。まだ戦争の余波が相当に残っている時代であったが、外来カルテは全部きちんと綴じられて保存されていた。最近のものから扁平足と診断名があるものを拾っていった。これが意外に少ない。最近でもそうだろうがたかが「扁平足」で大学病院まで診察を受けに来る人は殆どおられない。当時大学の外来新患がどの位あったのか記憶がないが、想定で年間何千人かはあっただろう。目が真っ赤になるくらい調べていって1年間に10人くらいの「扁平足患者」があっただろうか。とにかく何年分か調べて、何十人かの方に「挿板をお使いになられましたか?その期間?その効果?」等の簡単な質問の往復はがきを出した。
 その結果は惨憺たるものであった。数十通出したはずが、半分くらいしか帰ってこない。しかもその内容は「着けてみたが、痛くてすぐに外した。」というのが一番多く、精々4〜5箇月しか着けていない。そして結果は「無効」であった。これを先の助教授の先生に見せた所「これで学会に出す訳にはいきませんな。」の一言でお終い!因みに今では考えられないが、卒業して、医師国家試験に合格し4年くらい経っていた。この時の葉書代は全部自分持ち。その私は「京都大学医学部副手を命ず。但し無給。」と云う辞令を貰っている所謂「無給副手」であった。そして今から考えると、この頃までに整形外科学会でも足底挿板に関する論文は全く無く、よく調べると僅かに水野祥太郎先生が幾つかの足、扁平足の論文の中で触れておられるだけだっただろう。それだけにこの「調査」は意味があったのだろうが、如何せん、こちら側にも全くと言ってよいほどこれに関心、興味がなかったし、まして外国文献まで調べる事も当時は相当にむつかしかった。
 という事で、以来20年位、私は取敢えず一般臨床整形外科医になるべく、精進?し、足の事も、勿論靴の事も全く頭に浮かばなかった。
 余談だか、この頃は専ら進駐軍のお古の靴を購入して履いていた。これは私の足長からみて、少なくとも3cmは大きかったが、堅牢にできていてそれなりに格好も良く、長い間履いていた記憶がある。(この年で靴さえ丈夫ならば4〜5年は履けてのだろう。
 昭和30年過ぎに、この頃は神戸の病院に赴任していたが、よく訪ねてくる薬屋さんから「この頃このような靴ができているのをご存知ですか?」と言われたのが今で言う「ケミカルシューズ」であった。軽くて、強くて、体裁も良く、その上「安い。」という。3拍子も4拍子も揃っていて,履かない理由は無い。早速に購入,以来数年は履いていた気がする。その内少しは給料がよくなり、革靴も履きたくなり、デパートでたまたま見たイタリア製(名前だけ?)の靴を購入した。元来私の足は長さに比し、幅は狭く、甲高でなく、むしろ低い位で、この点、既製靴が合わせやすいタイプだと思っている。これも今考えると「足と靴が合っていた。」と云うことでは無く、単に「履ける。」というだけであったに過ぎない。但し、前回書いたような「革靴を履けば必ず豆(水泡)ができる」ことはよほどの長距離でも歩かない限り少なくなっていたが。(それでも以前から豆では苦労していたので、自分なりに良い治療法?を見つけ、必要に応じて応用していた。・・・この方法も余りにも幼稚で、今ではここに書くのも恥しい。
            第2報終わり 次回はドイツ製足底挿板との出会い

靴の随想(1) 「始めて履いた靴」

「子どもの足と靴の会」の創設者で,日本靴医学会の創設メンバーでもあり,長年「足と靴の研究」を続けてこられた荻原一輝先生が随想を寄せてくださいます。
 これが第1回目ですが,当会のブログへの掲載にご了解いただきましたので,掲載させていただきます。
                                           (管理人)

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「始めて履いた靴」
                     荻原 一輝

 私が生まれて始めて革靴を履いたのは小学校低学年で、昭和一桁の頃である。そもそも私は昭和2年生まれで、ほぼ昭和の年数と自分の満年齢が一致する。この時の靴は靴屋さんで既製靴の購入だっただろうが、足と靴が合っているかどうかについて、当時の父母や靴屋さん自身にどれだけの知識があったか疑わしい。それよりもそもそもこの時代の子供にとって「革靴」と言う物は一種のオシャレ(これも本人の希望でなく、むしろ両親にとって。)でなかったのだろうか?
 それは所謂「晴れの日・・・天候の晴雨でなく、おめでたい日、よそ行きの日の意味。」に履く物であった。多分当時の4大節(新年,紀元節天長節明治節・・これを一つ一つ説明すると相当に時間が掛かるので思い切って全部省略する。第二次大戦前の日本人の生活を学んで欲しい。)か、特別な外出、(京都の習慣では春の「都をどり」(毎年4月1日から30日まで祇園歌舞練場で行われる京都の年中行事の一つ)とか南座での年末の「顔見世歌舞伎」を見に行く時位に履かせて貰ったものである。しかしいずれも小学生にとってはそれほど嬉しい物でなく、きちんとした服装で悪戯することは禁止され、一日中苦しい事が多かった。特に滅多に履かない革靴はサイズも何もあったものでなく、去年履いたと同じものを今年も履くのであるから成長盛りの子供に合うはずも無く、専ら親の見えだけだったのだろう。履かされる子供こそ良い迷惑である。と言うことで、私の革靴に対する第一印象は「痛い」と言う事から始まった。
そして、次は待望の中学生になったときである。この頃の学制は、小学校年間だけが義務教育期間で、中学校は入学試験があった。これに合格すると決まられた帽子(制帽)制服、制靴を着けなくてはならず、その上当時はゲートル(この説明も省略する。)を着けなくてはならなかった。それで「靴」である。今日ではこの制靴を指定している学校、職業は極めて限られている。身近なものでは、病院の看護師があるが、それも順次緩められてきている。その他、自衛隊、警察関係、鉄道、旅客機の勤務員等だろうか。
 しかし、当時は兎も角も難関?の入学試験に合格した印で、制靴を履く事は“誇らしい“服装の一つであった。残念ながらこの昭和15年の小生入学時には既に日常生活物資配給制が始まり、革靴もその例に漏れず、4月の入学に間に合った物は多分制帽と制靴だけだったと記憶している。しかもこの与えられた靴は一応足の計測してから配給されたもので、既に牛皮製で無く、豚皮製であり、その後4年間の在校中もう一度配給が行われ、その時も足の大きさの応じた靴が配給されたが、15才から19才の思春期を2種類の大きさの靴で過ごしたのである。
と言う事は相当に傷んだ物を修理しながら着用していた事になる。しかし「制靴」と決められた以上、毎日の登下校時には必ずこれを履かなければならないし、「教練」と称する軍人の真似事の授業にも同じように履かなければならなかった。まず、靴紐はすぐに切れたし、ハトメも飛ぶのはごく初期の話、足の小指の先が破れるのを始めとして、親指の先、踵などが破れ足が見えてくる。この辺になると素人ではどうしようもない。その内致命的な甲皮と底皮が離れてくる。一部ならともかく、全部離れると上から縄でくくりつけて履く?事になるか、思い切って甲皮だけつけて。底皮なしで履いたことにする。この辺になると今の人には想像もつかない話で、つまり歩く度に踵を上げると自分の足の踵が見えると云う事になる。笑い話にもならない事だが、本人は真剣であった。
このような事で、今我々がやってきた「足と靴の適合性」という話題とは全く合わない話である。

 この一文は私がここ30年近くの間靴に興味をもって学んできたことを一緒に勉強してきた仲間達や多くの知人、友人達にも送る事にしているが、これを思いつきながらもう何年も経っている。それは何ども書きかけながら前に進まず留まってしまったからで、この度は敢えてここから書き始めていくことにしたが、此処まででもお分かりの様に、何ら学術的なものでなく、思いつくままに書き連ねていくという私の方式で進めることにしたい。その積もりで気楽にお読み頂ければ幸いである。        12.5.10

子どもの靴選び

もうすぐ,新年度,新学期ですね。
靴も新しく買い換える人が多いと思います。
いや,もう新調されたですね。

まだの方,とくに学年が1年上がる方,
一度,お子さんの上履きが窮屈になっていないか
体育館などでの運動に大丈夫か,見直してみましょう!

http://www.kodomokutu.jp/page02.html

子どものハイヒールについて

先日,京都地下鉄に乗っていて小学生と思えるこどもが5cmくらいヒール高さの編み上げブーツを履いているのを見かけました。K-popのグループなどが履いているタイプの靴に似た靴でした。

2011年12月4日朝日新聞教育欄に「どうする?おしゃれ 思春期のヒール靴」という記事が掲載されていました。

当会の例会の席上でも「子どものヒール靴」について話題になりました。

「最近,またハイヒール流行ってる」
「ヒール高くなってるね。」
「発達途上の子どもの足にとっては無理しなくても。。。」
「筋肉にかなりの負担がかかるのではないか」
等の意見が主流でした。

 やっぱり,子どもには自由に運動できる靴で,元気に歩いたり,走ったりして欲しいです。